脳腫瘍の男21話

脳腫瘍の男は

今日も彼女のいるホスピスに行きました。

2階の彼女の部屋をノックすると彼女が返事をしました。

「だれ?」

 

「あの。。昨日の。。」

脳腫瘍の男は緊張と喜びのあまり

声が上ずっていましたが

彼女は声ですぐに誰だか気づきました。

 

「入ってきていいわよ」

彼女が応えました

 

脳腫瘍の男は

「昨日は急にすみませんでした。

僕、自己紹介もしていなかったし。

昨日、ここから街に出て食材を買ったので

今日はお詫びにパンを焼いて持ってきました。

一緒に食べませんか?

カフェオレも水筒に入れてきました」

そう言って、彼女の前に差し出しました。

 

彼女は「まぁ、美味しそう。

日本人もパンを焼くのね。

ひとついただくわ」

そう言って、焼き立てのパンを一口食べました。

「美味しい!」

 

脳腫瘍の男は喜びました。

 

彼女は「私をからかってるのは判るけど

美味しいから許すわ」と言いました。

 

脳腫瘍の男は、

ビックリして言いました

「からかっていません!からかってるも何も本気です

僕はあなたが好きなんです」

 

 

彼女は冷たく言い返しました。

「ここがホスピスだって知ってるんでしょう?

どういう人がここに来るのか知ってるんでしょう?

余命半年よ。

生きることをあきらめた人が来る場所よ。

好きだの何だの。誰が信じるもんですか。

私は暇だったから相手をしたのよ」

 

 

脳腫瘍の男は

「僕は本当にあなたが好きなんです。

直ぐに信じてもらえないと百も承知です。

夢に出てきたなんて普通は信じてもらえるはずがないんですから。

いいんです。

僕があなたのおしゃべりの相手でもなんでもします。」

笑顔で応えました。

 

 

彼女が冷たく言って

脳腫瘍の男を追い返そうとしたのも無理もありません。

 

本気でも、からかわれてるとしても

どちらにせよ

彼女には先がないからです。

 

それでも、ここに来て毎日、誰とも逢わずに孤独でいるのは

死ぬより辛い事でした。

 

それで、目と目があった脳腫瘍の男に

つい声をかけてしまったのです。

 

脳腫瘍の男は冴えない男です。

彼の言ってることもすぐに信用は出来ませんでしたが

嘘をついてるようにも思えません。

彼女は彼といると

不思議と優しい気持ちに包まれるのでした。

同時に優しい気持ちに包まれることを恐れてもいました。

 

脳腫瘍の男は

「はい。カフェオレです。

一緒に飲みましょう。」

そう言って水筒をあけ持ってきたマグカップに注ぎました。

 

彼女は一口飲むと落ち着いたのか

自分の話をし始めました。

「わたしね、もう先がないのよ

長く生きられないの

ここ数年、ずっと癌と闘ったわ

手術、再発、手術、再発、でも全身に転移してしまって・・

どうすることもできないの

もう癌と闘うのは疲れたわ

それで、ここに来たの。

せめて空気のきれいなところでゆっくり過ごそうと思って。」

 

脳腫瘍の男は黙って聞いていました。

 

彼女はベッドのわきにある手鏡を出して

覗きこみました。

「癌の治療で髪の毛も抜けてしまって

鏡を見てると、とっても悲しいの

死ぬ前くらい神様は髪の毛を戻してくれるといいのに

ケチよね。

今はこんなだけど

病気する前は、これでももててたのよ」

彼女はそう言って微笑んで見せたけど

その笑顔は少し歪んでいました。

 

彼女は若く、病気でなければ活発で明るい女性でしょう。

 

彼女はつづけました。

「ここでは、みんな同じように死を待ってるの。

気持ちを共有できるけど

時々、息がつまりそう。

昨日の今日であなたに、こんな話をしてるのはおかしいわね

ごめんなさいね。

愚痴をこぼしてしまったわ」

 

脳腫瘍の男は言いました。

「そんな!

僕だってオカシイですよ。

昨日の今日で

あなたを好きだ!なんて言ってるんだから

僕の方がよっぽどオカシイですよ」

 

彼女は「ほんとうね!」と笑いました。

脳腫瘍の男も微笑みました。

 

「明日も、また来ます。

欲しいものがあったら言ってください。

僕、なんでも持ってきますよ。」

そう言って脳腫瘍の男は

帰りました。

 

 

別荘に帰ると

政界のドンはやけ酒を飲んで荒れていました。

脳腫瘍の男は

「こんなに飲んじゃったんですか!」と

空けたビンの数に驚いていました。

 

政界のドンは

「くっそーーーー!」

空のビンを一本二本と立て続けに壁に投げつけました。

壁にかかってあったせっかくの自慢の絵画も台無し

有名な芸術家の作品であろう彫刻も壊れました。

 

脳腫瘍の男は何が政界のドンに起こったのか想像もできませんでした。

 

政界のドンは今日の一部始終を脳腫瘍の男に説明しました

 

「今日、お前さんの前の病院に電話したんだ。

そしたら出来ないんだとさ!

お前の脳腫瘍で彼女を助けることが!」

 

政界のドンはまた一杯ぐびっと飲んで続けました。

 

「お前さんの脳腫瘍はストレスがたまると肥大して分泌物が出る。

その分泌物が俺のエイズを直し

マウスの実験では癌でもどんな難病でも治してしまった。

 

だけど

お前さんは、ある日、突然、長い眠りに入った頃から

脳腫瘍も肥大せず分泌物も出なくなったよな。

 

考えられる方法は腫瘍を切り取って彼女に注入すれば治るかもしれないが

だけども、そんなことをすればお前さんの命が危ない

お前さんの腫瘍は難しい場所にあるんだってな。

俺はお前さんに死んでもらいたくない。

でも、それじゃ彼女は助からない」

 

脳腫瘍の男もショックでした。

 

彼の腫瘍で彼女を助けられる

そう思っていたからです。

 

「僕はなんて役立たずなんだ!

この腫瘍は何のためにあるんだ?」

 

泣き叫びました。

 

脳腫瘍の男は、

生まれて初めて自分を憎みました。

 

彼は初めて人に恋をして

初めて自分を憎み

今までに感じたことのない感情が

彼を支配しました。

 

 

「僕の腫瘍、大きくなってよ!!」

自分の頭を何度も壁に叩きつけ叫びました。

 

政界のドンは

初めて感情的になる脳腫瘍の男の背中を抱きかかえ

止めました

「この苦しさが恋なんだぞ。

いいか!

俺も今日は荒れてしまったけど

きっと、あの女は、もっと苦しい事と向き合ってるんだ

俺たち二人とも、こんなんじゃダメじゃないか!」

 

脳腫瘍の男は、はっと我に返りました。

 

そうです。

今1番辛いのは彼女です。

 

脳腫瘍の男は

彼女を本当に愛しているのです。

 

夢であった時よりも

昨日よりも

もっともっと愛しているのです。

 

あと、どれくらい彼女は生きられるのか誰も判りません。

それでも最後まで彼女と一緒にいたい

脳腫瘍の男は腹をくくりました。

 

命を左右できるなんて

おこがましい事だ

そのことに気づいたのでした。

 

つづく