脳腫瘍の男⑫

政界のドンは 「腹も膨らんだ。辛気臭くなっちまったから飲みなおしに行くぞ。 綺麗どころが揃ってるクラブで飲みなおしだ! と言いたいところだが、お前さん女も酒も興味ないときてやがる。」 

 

それを聞いた脳腫瘍の男は 「だったら、いつも僕がお世話になってるジャズバーに行ってもいいですか? 未だ3ヶ月の眠りから覚めたことを皆、知らないから、心配させたままじゃ良くないし、皆にあいたいのです。」

 

政界のドンは 「ジャズバー?これまたお前さんに似つかわしくない場所だな。よし、命の恩人が逢いたい人がいるってんだから連れてってやる。」 

 

お店に入るとお店の主人も黒人のバンドマンも皆びっくり。 

 

演奏中だったにも関わらず皆途中で楽器を放り出し脳腫瘍の男の所に集まってきました。 

 

それもそうです。 3ヶ月も寝続けてたのですから皆、心配で心配で、未だ眠っている3ヶ月の間にもお店の主人とバンドの仲間はお見舞いにも行ったのです。

 

皆どうにかして目覚めさせようと大声を出して呼んだり揺さぶったり、わざわざ病院にギターを持っていき弾いてみたり、色々試しても起きてくれませんでしたから。 

 

彼の目覚めは皆にとって本当に驚きと嬉しさでいっぱいでした。いつも、冷静なお店の主人もお客の事は忘れ、彼のところに飛んで行きました。 

 

お客さんは演奏も止まりお店の主人も駆け付けたので誰か大物のジャズミュージシャンか有名人でも来たのかとザワザワし始めました。

 

中にはミーハーな人もいるものです。 

 

誰が来たかも知りもしないのに『有名人』かもしれないと言うだけで。

 

わざわざ携帯で写真を撮ろうとか、サインをねだろうとかして、『有名人』かもしれない誰かを見たいが為に 大きな黒人ミュージシャン達の背中を無理矢理押したり隙間から『パシャ』っと写真を撮ったり、これには腹を立てたお店の主人とバンドの中間達。 

 

この時ばかりはジャズマン達は怒り出し、汚い英語でお客さん相手に喧嘩を売ってしまいました。でも、英語の判らないお客さんの方はポカンとしたまま、未だ写真を撮ってるのです。 

 

集団とは怖い物です。 

 

お客さんの数人がその様な行為をしただけで、他のお客さんも 「誰が来てるの?」 「○○らしいぞ。」 「嘘!わたしも一緒に写真撮りたい!」 そう言って他のお客さんも集まってきてしまいました。 

 

この短い間にこのように集団でパニックになってしまうのです。

 

勿論、常連さんは静かに見守っていましたが、最近、このお店は芸能人に取り上げられたりして少々有名になってしまったのです。 

 

以前はこのお店では有名人がいたとしても声を掛けないという 暗黙の了解があったのです。

 

プライベートで来てるのだし誰もが演奏とお酒とその場の雰囲気を心から楽しんでいたのに。 

 

でも最近マナーのなっていない人が増えてきてしまいました。 

 

お店の主人は勿論、テレビやらで紹介したいと言われても取材拒否していたのですが、今ではネットで噂が広がり、 「あのお店では○○と××がデートしてるらしいよ。」 と言うような半分以上デタラメの噂が立ってしまい本当に演奏を楽しみにしてたお客さんが来辛くなってしまったのです。 

 

それはお店の主人の悩みの一つでもありました。 

 

でも噂も75日。忘れっぽい日本人。 また、以前のように楽しめる場になるだろうと思っていました。なのに、こんなパニック状態になった事に哀しいやら悔しいやら・・・ 

 

そんなパニックになってる最中。 脳腫瘍の男は人ごみを掻き分けすーっとピアノの椅子に座りました。 

 

彼は有名人でも何でもありませんから、誰も彼の事など見ません。 

 

お客さんは勝手に『有名人』がいる!ただ、それだけの事でわいわいがやがや、時には罵声も飛び交い、政界のドンはその騒動のために入り口で躊躇していました。 「何が起ってるんだ!?」 彼もちんぷんかんぷん。 

 

わいわいがやがやとしてる中で薄っすらピアノの音が聴こえてきました。 

 

皆、最初は気付きませんでしたが、「ピアノの音がする!やっぱり有名なミュージシャンが弾いてるんだ!」誰かがそう言うと皆、ピアノを弾いている男の方を見ました。 

 

そこで弾いてるのは誰も知らない平凡な冴えない男です。

 

お客さんは、「なーんだ!有名人じゃないのか。」と、落胆したと同時に男の弾くピアノの音に心奪われました。

 

大して音楽に知識のない噂に興味があっただけで来た人たちまでその場に立ち尽くし聴き入ってるのです。 

 

有名でも何でもない平凡な男のピアノの演奏に皆が不思議な感動を覚えたのです。 

 

入り口の手前で躊躇してた政界のドンにも聴こえてきました。 「あいつ、ピアノも弾くのか!何者だ!?いや、何者でもないのか。」 

 

そう脳腫瘍の男は『何者』でもないのです。 

 

演奏が終わると拍手喝さい。 

 

さっきまでのパニックはなんだったのでしょう。 『有名人』ってことだけで、席を立ち集まったお客さんはばつが悪そうに、そしてどこかはにかみながらも銘々の席に戻りました。 お店の主人はこんなに感動した演奏を聴くのは初めてでした。 黒人のバンドの仲間も同じように感動していました。 

 

入り口で聴いていた政界のドンも、さきほどの料亭の三味線と今回のピアノを聞いて増々、脳腫瘍の男を好きになってしまいました。