脳腫瘍の男⑪

晴れて退院の日。

脳腫瘍の男を早速、迎えに来た政界のドン立派な車に乗りこみました。 

 

政界のドンは 「旨いもん食いたいだろ?それとも酒か?」と、脳腫瘍の男に聞きました。 

 

「僕、お酒呑めないから・・・」 脳腫瘍の男がそう応えると、 

「酒が呑めないんなら、ま、近くの料亭に行こう。とにかく俺は腹が減った。

 よし、芸子も呼ぼう。いい女がいるのといないのとじゃ大違いだ。」 

そう言うと 「僕、女の人にも興味がないんです。」 

 

脳腫瘍の男の応えにびっくりした政界のドン。

 「な、なにか?お前さん、こっちか?」 と、手で合図しました。

 脳腫瘍の男は意味が判らず 「こっちってどっちですか?」 素っ頓狂な返事にイライラしだした政界のドン。 

「だから、男の方が好きか?って事だ。ホモか?って聞いてるんだよ!」 

 

脳腫瘍の男は慌てて 「そういう訳ではありません。でも、今まで女の人を好きになった事がないんです。」

 政界のドンは 「確かにお前さん、もてそうに見えないが、普通、恋とかするだろ? 若ければ雑誌の可愛い子ちゃんにあそこが立つってもんだろ?」と脳腫瘍の男の股間をぎゅっと握りました。 

 

びっくりしたと同時にそう言われて困ってしまった脳腫瘍の男。恥ずかしそうに応えました。 

 

「僕、そういう経験もないんです。つ、つまり、勃起という物を体験した事がないんです。」 

 

「なんだと?お前さんインポかい?その若さで可哀想に。 いや、それでもな、普通、片思いでも好きになるとか、そんな経験はあるもんだぞ。」 

 

政界のドンは脳腫瘍の男が片思いでも恋愛の経験がないことが不思議でたまりませんでした。 

 

でも、ふと脳腫瘍の男は思い出したかのように言いました。

 「あ、あの人!誰かは判らないけど、あの人を思うと胸が苦しくて、でも、逢えると嬉しくて見つめてるだけで幸せなんです。」

 

政界のドンは 聞きました「それだ!それが恋ってやつだよ。誰だい?その女は・・・って、誰かは知らないのか。 でも、見つめてるだけって事は、お前ストーカーか?」 

 

脳腫瘍の男は大きく首を横に振りました。 

 

「じゃあ、なんなんだよ?お前さんは俺の命の恩人だからな。 なんとか、引き合わせてやるぞ。おれが仲人だ。どうだい?その女何処に住んでるんだ?」 

 

脳腫瘍の男は話し始めました。

 「実は夢に出てくる人です。眠ってた3ヶ月間もずっとあの人が夢に出てきました。 

だから僕3ヶ月間も眠ってただなんて後で聞いてびっくりしました。

 だって、僕あの人の笑顔見てるととっても幸せな気持ちになるんです。 

でも実際に逢ったこともないし有名人でもないし、

でも、何処に住んでるのか、誰なのか、全く判りません。 こんな想いは初めてです。」

 

この話に呆れた政界のドン。 「おいおい。夢に出てくる人じゃ困るよ。話にならん!」

 

そんなやり取りをしている間に車が料亭につきました。 

 

料亭では芸子さんも呼び政界のドンはお酒とご馳走で満足気でしたが、脳腫瘍の男は何となく元気がない様子。 そこに芸子さんが三味線を持ってきました。 三味線に合わせて踊る芸子さんもいました。 急に顔が明るくなった脳腫瘍の男。 「僕も三味線弾いていいですか?」

 

政界のドンは 「なんだ。お前さん、三味線弾けるのか?」 

 

脳腫瘍の男はそんな質問も無視して三味線を嬉しそうに弾き始めました。 

 

彼は初めて三味線を生で見たのです。 でも、彼は始めてみる楽器でも弾けてしまう不思議な能力があります。 

 

彼は、ふと、子供の頃よくお母さんが唄った古い民謡を思い出し、三味線を弾きながら唄い始めました。 民謡と言っても彼独特の節回し。 

 

それを聴いた政界のドンは、急に途中で席を立ちました。 

 

唄い終えた脳腫瘍の男は政界のドンがいなくなっていたことに気付きました。

 

不思議に思い襖を開けたら真っ赤な目をした政界のドンが立っていました。

 お手洗いに行ったわけでもなく襖の向こうで聴いていたようです。 

政界のドンは鼻を啜りながら 「あの唄。なんであんな古い知ってるんだ?」

 脳腫瘍の男は母がよく唄っていたと説明しました。 「お袋さん、何処の生まれだい?あの唄は俺の故郷の民謡だ。きっと同郷なんだろうな。いや、気にしないでくれ。 いいんだ。さ、酒呑むか。 いい唄だったよ。」そう言って又席に戻りました。 

 

政界のドンの背中は何だか小さく見えました。 

 

つづく