脳腫瘍の男⑩

退院するまでの1週間。 政界のドンは仕事そっちのけで毎日、病院にお見舞いに来ました。 

 

彼にとっては命の恩人。 理由はそれだけではないようです。 

彼自身、その理由はわかりません。 唯、会いたくなって病院に来てしまうのです。 

 

政界のドンは脳腫瘍の男の為に、まず彼の一番会いたがっている両親に連絡を取らせました。 

 

両親は病院からの連絡で驚き、大喜びで病院に駆けつけました。両親はもしかしたら一生このまま眠り続けるのでは?そう覚悟していましたから。 「お父さん!お母さん!」 元気そうな息子に涙ぐみながら抱き合いました。 

 

政界のドンは 『でも、なんだ?親父さんもお袋さんも、随分年寄りだな? じーさん、ばーさんじゃねえか? 遅い出産だったのか? それにしても、年寄りだぞ?』 政界のドンは不思議に想いながらも、遠巻きに眺めていました。

 

脳腫瘍の男は 「この人が僕の事、起こしてくれたんだよ。」 と、両親に政界のドンを紹介しました。 そうは言っても実の所、彼は政界のドンと言うことも正体すらも何も知りませんでした。 でも、彼にとっては、そんな事はどうでもいい事なのです。 

 

両親は驚きました。 

血の繋がってる身内や良くしてくれた上司や同僚、お店の主人やミュージシャン仲間。 誰が声を掛けても軽くほっぺを叩いても起きなかったのに、 今まで交流のない言わば全くの他人です。 

何故この人の声で起きたのだろう? 

誰もが不思議に想う事です。 

 

それでも、もう一生目覚めないかも知れないと思っていた両親は心の底からお礼を言いました。 

「何処の誰とは存じませんが、息子の命を助けてくれたのですね!本当にありがとうございます。なんとお礼を言っていいのやら。」 

 

政界のドンは敢えて自分の身分を両親には隠しました。 そして、丁寧にこう言いました。 

「逆ですよ。こっちがお礼をいわなければなりません。 

息子さんが私の命を助けてくれたのです。 息子さんは、私の命の恩人です。 

お礼をしなければならないのは私の方ですよ。」 

両親はどうして息子が命の恩人なのかは、さっぱりわかりませんでしたが 政界のドンと両手で固く握手をしました。 

 

政界のドンは 『こんな暖かい握手・・・初めてかもしれないな。 いつも汚い手と握手してたって事か・・・。俺の手も汚いがな。』 ふと、そう想いました。 

彼自身も、そんな風に想う自分に戸惑い、直ぐに握手の手を放しました。 

 

『善良な市民か。俺の手で苦しめきた人達か・・・。』 

 

彼にとって握手はお金と名誉の為のもの。 

市民に対しての握手は大昔の選挙の時の握手以来です。

 その握手も欲望と野望のための握手でした。 

 

『この俺様が何、戸惑ってるんだ?』 

 

彼も自分の心境の変化に戸惑いつつも、気分は悪くないのです。

 

家族で抱き合うシーン。 

普段なら「下らん」と、冷ややかに眺めてたのに 今日は、彼の心が痛くて、そんな風に眺めてはいられなかったのです。

 自分の子供の頃を思い出したからです。 

 

両親が帰った後、政界のドンは脳腫瘍の男に自分の正体を明かしました。 でも、脳腫瘍の男は 「そうなんですか。」 その一言で終わってしまいました。 

 

カチンと来た政界のドン。

 「お前、一度くらいテレビで俺を見たことあるだろう? 一度は総理大臣になったんだぞ! まぁ、日本人は忘れっぽいからな。 でも、『そうなんですか。』はないだろ? お礼はたんまりやるぞ。幾ら欲しいんだ? お前にやる金なら億単位だ。 一応、小切手も用意してある。 なんてったって、俺の命の恩人だからな。 幾らでもいいぞ。」 

 

脳腫瘍の男は 「何も要りません。僕を長い眠りから起こしてくれたのだから、僕の方がお礼をしなくちゃ。」 

 

その返事に驚いた政界のドン。 「なに~?礼はいらんだと!」 政界のドンは意地になりました。 

 

お付の人に合図を出しました。 

何やら重そうな銀のジュラルミンケース を幾つか持ってきました。 

お付の人に脳腫瘍の男の前でその中身を見せました。

 中身は綺麗に並んだ札束です。 

 

脳腫瘍の男は 「これは何ですか?」 と、すっとんきょうな質問をしたので、余計に苛立った政界のドン。

 

「現生だよ!金だ!金。とりあえず、これをお前にくれてやるって言ってるんだ!」 

脳腫瘍の男は 「お金ですか。僕、お金が欲しいわけではありませんから。 僕、十分幸せですから。」

 そう言われて、政界のドンは初めて自分が負けたと感じました。

 

「お前みたいな奴、初めてだ!ちきしょう。 悔しいがお前はおもしれえ! お前さんのおかげでなんだか調子が狂うんだ」 そう言うと政界のドンは病院中に響くほど大笑いをしました。

 つられて脳腫瘍の男も笑いました。 

 

つづく